昭和43年8月21日 朝の御理解
御理解第59節「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」
ね、なら例えばここで私が、毎日こうして信心を皆さんに聞いて頂いておる、ね。いわばここで信心の勉強を、私がまぁここでは師匠として、皆さんに聞いて頂いておる。
ですから、皆さんがそれを覚えておって、ね、おかげを受けて、おかげでおかげを受けたと言えば、ね、これは私も嬉しい。けれども頂いたかと思うたらもう落としよる。こりゃ大分覚えてきとると思ぇやもう後はな、あー、しだごたにして行くというようなことではね、師匠も喜ばんが、ね、第一神様も喜び、喜びじゃない、金光大神も悲しい。ね、そして皆さん銘々も、こんな馬鹿な話はないのであります。
そこで果たしてここに、まぁ疑問を感ずるのですけれどもね、習うたことを忘れて、もどしても、とこう仰るが、習うた事をもどすということは、習う事を一遍覚える、たという事なんですよね。
ところが、習うた事を一遍覚えるじゃなくて、何が何やら分からんでおるのが、私は多いのではなかろうかと思う。戻すも戻さんも、もう分かいよらん、一つも分かいよらん。分かりよらんならもう一遍聞きゃいいけれども、いや一遍は二遍でも三遍でも聞きゃいいけれども、分かったようにしておるから、もうそれ以上は教えもしない。また、自分もそこに取り残されて行く。
まぁ私共、まぁこりゃ、ね、私は(小学校ですから、 ?)の学校は知りませんけれども、まぁ小学校に通いますとね、先生がやはり教台に立って色々と教えて下さる。ね、それを覚えて、例えば試験がある時には、100点満点をとる人もありゃ、80点の人もありゃ、50点の人もありゃ、もう全然、いわゆる0点という人もある。
ね、先生は同じ事教えておられるんです。ね、同じ時間をかけて教えておられるのだけれども、30人なら30人。50人なら50人の生徒の中に、それぞれその違うのである、覚え方が。いわゆる覚えようとする熱意、意欲が違うのである。
それは、やはり小学校の勉強でもそれである。お互いがおかげを受けたい、おかげを受けたいという、ね、受けたいと思うからこそ、やはりここに通うて来るのである。ね、いうなら、覚えたいと思うからここに通うて来るのであるけれども、それを覚えようとつとめない。
ね、習うた事を忘れるどころか、習うたことを一つも覚えていかない。これではもう全然その、お話にならん事。ね。今日の御理解はどげな御理解、いやどげな御理解でしたかのち。いや私は頭が悪いからみんなは覚えとらんけれども、ここだけは有り難く頂いたと。と、まぁいうところがあれば良い。けれども全然分からなかった。
もう3年参りよります。5年参りよります。というような人でも、ね、全然その覚えて行かない。習うた事をもどすどころか、習うたことを一つも習うてはいない。もどすものすらがない。
どうでしょうかね皆さん。ここで一つ皆さん自分の信心というものを(いかにとも、こう?)覚えておるようにもあるけれども、それがどのくらい自分、まぁ自分のものになっておかげを受けていきよるかということを、一つ本気で思うてみなければいけんと思いますね。
それじゃなるほどおかげが受けられんはずだということが、だから分かるのですよ。なるほどこれではおかげは受けられんはずだということが、分からなければならん。ん。
自分もおかげを頂いて、師匠のおかげで、これほど出世したといや、師匠も喜ぶ。ね、いわゆる神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃというようなですね、おかげを一つ目指さなければいけませんね。
果たしてそういうようなおかげになっていきよるでしょうか、お互いが。でないなら、一つ本気で習おう、本気で覚えよう。あー今日の御理解は、本当にあの、まぁ相済まんことじゃけど眠かった。
昨日北野の秋山さんがここでお届けをされるんですよ。先生今日はご無礼でしたけれども、どうも御理解頂きながら眠うして眠うしてたまりませんでしたと。先生今日の御理解の一番大事なところを、一言でも良いからもう一遍お話して下さいというて、ここに見えた。
ね、誰だってやっぱ眠たい時は眠いのである。もう何を聞いとっとやら分からんのである。だから今日の、その御理解のいわば中心であるというか、ね、一番大事なところを一言でも良いから、もう一遍聞かせて下さいとこう願われる。
今日の御理解の、まぁ焦点はこういうことであったというて、まぁ一言私はそのことを伝えさせてもらったんですけれども、ね、そうしてです、分からなかったならば、もう一遍訪ねる。それは二遍でも三遍でも訪ねるという、私はあの稽古するものの態度がね、必要じゃなかろうかとこう。
昨日は、久留米の佐田さんのところの、宅祭り、謝恩祭がございました。去年奉祭され、去年を、お神様をお祭りされた。で奉祭式に、菊栄会の(連中で?)まぁ御用させてもろうたり、お祭りをさせてもらったんです。
それで、この20日という日をね、8月の20日という日を、これから佐田家の謝恩祭の日になさると良いですねと。来年もまた、今夜という日を一つお宅祭りになると良いですねちゅうて。
と、まぁお話をした事でございます。それは去年一昨年の話であります。いや、去年の話だったでしょうかね。一年経って段々信心の稽古をさせて頂いて、いうならば昨日のお祭りがですね、一年前に聞いたことを覚えておいて、そしてあのようなおかげを頂いて、あのような謝恩のお祭りが、いわば出来たわけです。
いうなら、師匠が言うておったことを覚えておって、そしてあぁいうお祭りが出来た。しかも真心いっぱい。しかも家族中。ね。しかも、出来るだけにぎやかなお祭りを奉仕したいと、というので、えー、おばあちゃんは総代ですから、総代(仲間?)に。「きょうぞう?」さんは菊栄会ですから、菊栄会の連中に。
若い奥さんは、竹葉会だから竹葉会の方達に、それぞれどうでも一つお参りをして下さいというので、もうそれこそあそこ、もう部屋の、あれは(とり?)全部(かだい道具?)を片付けられてから、五十名あまりの者がお祭りを頂きました。ほんに有り難いお祭りでした。
ね、大体信心を覚えていきよりゃね、まず覚えていきよりゃ家に神様、まず奉祭しなければおられんのですよ。ね、そして、まぁいうならば年に一回ぐらいの謝恩祭ぐらいはさせてもらわなければ、おられないのである。
十年信心しよりますけれども、もう十五年参りよりますけれども、まだ家にお神様がお祭りしてない。何を覚えて帰りよるだろうか。というような人もまだ沢山あるわけです。ね、まぁこれは形のこと。
まず佐田さんのところの例を言うなら、なら1、2年間の信心ではない。もう10年にもなりましょうか。けれどもなら一年間なら、一年間の間にどういうふうにおかげを頂いていったか。どういう風に信心を覚えていったか。
まぁあちらがたいだいが乾物屋さんですから、昔からね。なら、伝統を持たれた本家の方は、「サダヨ」というお店、やはり。現在立ちさわっておられるのが、やっぱり乾物を主にしてお商売なさっておられますから、でしょうかね、あそこでお知らせを頂くのがみんな乾物でお知らせを頂いた。
乾物もので、中にあの、かつおぶしですね。★かつおぶしを頂いた。それを一生懸命でこうカンナで削っておられる。まぁ一年間、まぁ佐田さんの信心がです、一生懸命、もうそれこそ身を削っての信心であったと私は思う。ね、段々身を削っていくとどういうことになるか。自分というものが段々段々、自分というものが小さくなって行くのですよ。
ね、自分というものがなくなっていくことに、空しゅうなっていくことに近づいていくわけなんです。いうならば、我情我欲が削られていくのですよ。んなら、削った我情我欲のその、削ったそれも、どういう風になるかというと、美味しい何ともいえないその味わいというものが出て来るわけなんです。
その味わいを味わう事が出来るのである。身を削る味わい。ね、身を削って、それこそ、身にカンナをかけられる、じゃなくてもう自らカンナをかけておるような感じ。そして、例えば一年前なら一年前の、ならご主人の、佐田「きょうぞう?」さんの信心というものを、それは側におる家族の者が見ても、「きょうぞう?」さんが変わって行かれるのを、まぁ本当に有り難いものとして、皆がその信心に(みげ?)習いしてついていかれる。
ね、これはまぁ、私はそういう意味合いでですね、覚えた事、習うたことを覚えておって段々一生懸命信心の本義に基づいて。信心の、天地の親神様の願いに基づいての信心が、まぁ、いうなら一年間なら一年間の間に出来させて頂きよるうちにです、ね、あぁいう、ならお祭りが、それこそ喜びいっぱいで、しかも真心いっぱいでさせて頂こうということに、まぁなって来たのじゃなかろうか。
習うた事を覚えておって、ね、師匠も嬉しい。お取り次ぎさせて頂いた私も嬉しい。ね、神も喜び、金光大神も喜び、そして佐田さん一家も喜びでなくてなんであろうかと私は思うのです。
ね、お祭りを終わらせて頂いきまして、家族中の方が、私の控えのところへお礼に出て見えました。「きょうぞう」さんは、勿論ですけれども、あの(しんに?)ここにあんまりお参りをなさらないおじいちゃんまでが、そこれそ目に涙をしてから大変なおかげを頂いて有り難うございました。ち言うてお礼を言うておられます。
ね、正しくその、氏子もの喜びになっているわけでしょう。これがまだ何処までおかげに展開して行くか分からない。信心を緩めない限り。ね、今日は皆さん、信心を習うた事を忘れてと仰るが、ね、習うたことを忘れるという、忘れるものすらがない。いっちょん覚えよらん。
もう5年も参りよってから、大体こっち側ん方の、あんこまか方ん神様は何、大体何様ですか、ちいう人がある。5年間も(聞かれとらん?)知らん。分からんなり。ね。そういう事ではいかにその勉強不熱心。いわゆる稽古といえば稽古の不熱心であるかという事が、まず分かる。
ね、分からんところをハイハイと手を上げて、ね、私共が先生に質問をしたように、分からんなら分からんところを訪ねにゃいかん。ここには信心の稽古に通うて来るところ。それを覚えてもっておかげを受けたら、師匠も喜ぶ、ね、いわゆる神も喜び、金光大神も喜ぶということになり、氏子もの喜びというようなおかげになるのですから。
ただ自分だけが喜ぶ。自分だけが有り難いおかげを頂こうと。神様は喜んでもらわんでも、金光大神は喜んでもらわんでも、自分だけが喜びよるごたるおかげを下さいだけの、そういうお粗末な信心であってはならんのです。
ただ自分の思うごとなることだけを一生懸命で他のことなんか考えとらん。だから、覚えんでん参りさえしよりゃ、なるほどおかげは受けますけれどもね、それでは、神も喜び、金光大神も喜びという事にはならんのです。ね。
お互い一応ですね、習うたことをどれほど自分が身に付けて、しかもそれを身に付けておかげ、分からせてもろうて、本当におかげ頂いたとお礼が言えておるようなおかげを現しておるであろうかと。何処をどう覚えたであろうかと。まぁ一つ検討してみなければなりません。
そこで一つ皆さん、信心の心得を開いてごらんなさい。ね、果たしてこれが自分の信心の内容になっていきよるであろうか。ね、もしなっていきよらんならば、なるほど習う事は習いよる。聞きよる事は聞きよる。覚えちゃおる。覚えてはおるけれども、それをもどしておるのと同じ事なんですよ。
ね、信心の心得を、まぁ(和解よい?)のから一つ二つ読んでみましょうかね。「信心は家内に不和のなきがもとなり」果たしてね、本当に不和のないもとをつくろうという精進をしておるだろうか。心と心で、ね、憎みあったり。ね、いうならば、こなし合ったりしておるような事ないだろうか。
ね、本当に拝み合えるような稽古を本気でさせて頂いておるであろうか。「真の道に入れば、まず第一に心の疑いの雲を払えよ」と。まだ疑心(はんき?)じゃなかろうか。もう一つ(二つ?)取りぬきましょうかね。「わが心でわが身を救い助けよ」と仰るが、わが心でわが身を救い助ける事の精進をしておるだろうか。
人間はもう自分で自分の心はどうにも出来ないことがあるけれども、それを自分の心でまた救い助けるための精進。心を神様に向ける精進をしておるだろうか。「信心する人は何事にも真心になれよ」いわゆる真心になれよと仰るが、果たして全ての真心の中にも、真心を込めなければ、はーこげなこっちゃ、信心しとる者と(してない一緒?)なんといったような風に、そのおかげを受けていっておるであろうか。
「我情我欲を放れて真の道を知れよ」と仰るが、真の道を知るためには本気で一つ我情を我欲を、それこそカンナで身を削るようにして、その稽古を果たしてしておるであろうか。「わが心でわが身を生かすこともあり殺すこともある」と仰るが、ね、本当に、ね、一つのこの、ここの問題をです、自分の身を殺すことにね、難儀な問題があるともう自分の心が真っ暗になっておるというのは、もう自分の身を殺しておる。
難儀な問題がある、それによって自分が一段と信心が飛躍しとるならば、それは自分で、ね、自分の心でわが身を生かしておるが、果たしてそういうような精進をしておるであろうか。
「大酒大食をするは絶食のもとになる」と仰るが、ね、「食物はわが心で毒にも薬にもなる」と仰るが、ね「何を食うにも飲むにも、ありがたくいただく心を忘れな」と仰るが、ね、果たしてそういう願いを持っておるであろうか。そういう精進をしておるであろうか。
「心配する心で信心せよ」と仰るが、ね、果たして心配を神様に預けよる。昨日もある人がお参りしてきて。ね、娘が大変な難儀をしよる。ね、だから、親の私なっとん心配してやらなければあんまりかわいそうちいわっしゃる。
馬鹿んごたることいわっしゃるですね。何のために信心しよるのちいうごたる。娘がもうそれこそ、もうそれこそ毎日(泣きの涙?)ちいうごと苦労しよるわけたい。それけんで、その今度の(おっかさん、おっかさん?)なっとんですね、心配してやらなければあんまり娘がかわいそうじゃ。馬鹿んごたる事ばっかりあんた言うのち、と言いたい思いでした。
ね、あんたが心配して何になるのっち。ね、心配する心で信心せよと仰るから、その心配の心ば何故合楽に向けてこんのじゃ。ね、果たしてそういうような、ただ自分だけが心配しておるような事はなかろうか。取り越し苦労しておるようなことなかろうか。
「信心は本心の玉を磨くものぞや、若い者は本心の柱に虫を入らせなよ」と、どの一節、どの一ヶ条一ヶ条を読ませて頂いてもです、信心させて頂く者の心得を、しかもこれを合楽(でおりる?)
それこそ、その何故それを大事にせなければならんのか。大事にすればどういうことになるのか。いや、しにくいならばこういう、それをみやすう頂く道があるということを、(明き暮れ?)説かせて頂いておるのであるからです、これが身に付いていかなければならないはずなんだ。
それが、んなら今私が読ませて頂いた、なら十ヶ条なら十ヶ条あまりの、その信心の心得がです、自分の心得として生き生きと内容になっておるかどうか。ね、本気でそこ事に、そう取り組んでおるかどうか。もし今私が申しましたようなことが、はーこれが自分のものになっていきよる。また自分はここに焦点をおいておるならまだよし。
けれども、今読みました(ものが?)どうにも自分のものになっておらん。それに向って精進もしよらんというならばです、通うてはきよるけれども、ね、それは習うたものをかえしよるか。でなかったら、習うたことを全然習うたものにしよらん。全然覚えては行きよらんと言わなければならんのでございます。
それでは何時まで経っても、神も喜び、金光大神も喜びということになってこないのです。ね、「馬鹿の一つ覚え」というじゃないですか。私は先生、他のことを頭が悪うしてよう覚えきらんけれども、これだけはいよいよ自分のものになりましたというぐらいなものが、なからなければね、私はおかげになってこないと思うんです。
改めて今日の御理解を頂いてみてですたい。私は一番感じますことは、一番始めのですね。習うたことをもどしてはと仰るが、果たして習うたことをもどすだけのものを一遍自分が頂いておるだろうかということでございます。もどすよりか頂いておらんのじゃなかろうか。
いや、頂いてはおる。そんならば、それをもどしておるのと同じようにです、一つも自分の心に、または身の上に自分のものに消化していこうとする精進をしていないとするなら、改めて一つ、そこんところに精進をおいてです、一つその信心の稽古をしなければならんという風に思うですね。どうぞ。
梶原 佳行